つい数週間前に保坂和志という猫好きの小説家の『アウトブリード』というエッセイ集というかなんというか、小説ではない本を読んで、そこに「去年の四月から八月にかけて『残響』という百五十枚の小説を書いたが、あのときは息を詰めすぎてまわりの空間が少し歪んでしまったような気がしたし、体の調子も具体的に結構悪くなった。冬のうちに一番若い猫がウィルス性の白血病を発病して死んだのだが、『残響』を書いたときの空間の歪みが影響したと、ぼくはどこかで本気で考えている。」とあって、そのときにはまだ愛猫「しっぽ」は我が家で当たり前のようにいたずらしたり食べたり寝たりしていたから「さすがにそれは無いだろう。この人はどこまで猫に近いんだ」と愛猫家の僕ですら少し首をかしげたのだけれど、今では保坂和志と同じようなことを僕も本気で考えている。
去年の十二月から三月末にかけて我が家は非常事態ともいえる多忙期に入って、僕もマサ子も息を詰めすぎてこの家の空間を歪めていたから、それを敏感に感じ取った「しっぽ」は身の危険を感じて「ここではないどこかへ」自ら逃げ出したのだ。「四月になれば楽になるから」と呪文のようにこの家の人間たちは繰り返していたけれど、それは猫にはわからなかったし、わかったからといってその言葉を信じるに足る根拠など持ち得なかったはずだ。事実、四月に入った今でも僕はゆったり呼吸できていない。しっぽの判断は正しい。
ある日突然さよならも言わずに去っていきました。という常套句は聞き飽きるほど世の中に溢れているけれど、実際にそういう状況に置かれたときの残されたものの喪失感がどれほど伝わっているのかというとやはり難しい。誰かに伝えたところでざっくりとあいてしまった傷がふさがるわけではなくて、それは結局自分自身で向き合うしかない。やがて傷口に薄皮がはり、そのうち傷穴を肉がふさいで盛り上がるだろうけれど、そこには堅いしこりが残って触るたびに鈍い痛みを感じるはずだ。喪失はキャンセルすることができない。
食べるものと寝るところを提供した「飼っている」状態だからと言って、猫の個というものを「飼い主」が所有しているわけではなくて、個は当たり前に猫自身が所有している。僕は飼い主として飼い猫を制御していたつもりでいたけれど、実際はできていなかったということをしっぽは鮮やかに示してくれた。なぜかそのことが僕の心のバランスをどうにか保たせてくれている大きな要素になっている。さすがは我らがしっぽ君だ。いつまでも元気で。